昭和47年10月03日 朝の御理解



 御理解 第89節
 「此方の道は傘一本で開くことができる。」

 此方の道と言うのは、此方金光大神の道と言う事ですね。教祖金光大神の言うなら歩かれた道。その歩かれた道が、どう云う所に繋ながって行ったかと、言うと天地に交われたと言う事です。言うなら天地を貫かれたと言うてもいいでしょう。此方の事を神々と言うが、此処に参っておる皆んなも、皆んな神の氏子じゃと。此方がおかげの受け始め、皆んなも此の様なおかげが受けられる、とも教えておられる。
 お道の信奉者の全てが、その生神への道、そういう道を目当てとして、焦点として、信心を進めて行く、と言う事になったら、素晴らしい事だろうと思います。もう私は生神様にならんでもいいと、今困っておる事が一つ成就すりゃそれでいい、と。その事が一つ成就する事が、例えば幸せに繋がる事ではありますよね。また一つ一つと頂いて行きゃいいのですから。けれどもそれだけで良いと言う事はない。だからもう限りない道。そのかわりに限りなく無尽蔵に開けて行く道。
 いわゆる無尽蔵におかげを受けられる道と言っていいでしょう。限りないおかげの頂けれる道。先日甘木の教会で、幹部の信心研修がありました。その時に班別まあ懇談をなさった時に、甘木の平田さんの奥さん、がその班におられて、何方でしたか誰か聞いたんですけども、此処を丁度其の時に沢山お参りされておられましたから、どの班にでも入っておられる、其の中の一つです。もう何年か前此処でやはり信心共励会が御座いました。研修会のその時に、私の話を聞いて頂いた。
 その時の話が忘れられない。何時も自分の心の中に残っておると、言う事を発表されたと言う事です。あの時に数字の八の字を説明された。いわゆる横に書いてある八の字、(∞)それは無限大の印だと。だから言うなら無尽蔵と云うおかげに繋がるのだ。そう云う願って頂く、拝んでもらうと言った様な物ではなくて、もう限りなく、おかげの頂いて行けれる道。合楽の先生がそう云う事を、それを説かれたその事が、今も鮮やかに私の心の中に残っておると、言われた。
 それは平田繁吉氏夫妻が辿られた道でも、又あるからだと思うのです共感を呼んだ訳です。其処でですその時私が申しました事は、例えば腹がよじれる様に痛むと言うか苦しいと言うか八の字を∞横にこう寝ておる。しかも腹がよじれる様に千切れる様に、それこそ腸わたが煮え繰り返る様な例えば場合であっても、それを御神意と頂いて行く信心の修行が出来たら、その無限大の徳に繋がる事が出来るんだと。私はそん時にある若い先生の事をお願いしよって、もう本当に前からある教会に行かれたのですけれども。
 大変な色んな問題に直面された。もう教会をやめようかと云う難儀な問題が続くと云う話を聞かせて頂いて、此処に関わり合いのある、教会ですからその方の事をお願いさせてもらいよった。そしたらそのお知らせを頂いたんです。だから私は無限大の記号であると云う数学の中の記号なんですね、そう云う事全然分りませんですからから、只八の字が横に寝とると云う。もう兎に角丁度丸いとをこうやって捻ったら八の字になるでしょう∞。それけんははあ是はもう、それこそお腹が千切れる様な所でも。
 辛抱させて頂いたら八の字だから、もう愈々末広がりのおかげが頂けれると云う様な御理解を、皆さんに朝聞いて頂いた。そしたら委員長夫妻が何時も一番に此処にお届けに出て来ますから、先生、今日の御理解は八の字を横に書いたら、あれは、無限大の記号です数学の、と云う事を聞かせて頂いて、それだったら愈々、今日の御理解は有難い事になるなと。いわゆるお互いがです。無限大もう限りない、しかも無限大に広がって行く。そう云うおかげの頂けれる道なんです。
 金光大神の教えられた道と云うのは。また金光大神が歩かれた道とはそう云う道なんです。だから目指す所は、やはりそこだと。みんなも此の様なおかげが受けられる。だからそう云う道を辿らせてもらい。そう云う道を歩かせて頂く、信心でなからなければです。只おかげを頂くと云う、そこだけの、その道は行じなくても歩かなくても、知らなくても、只毎日お参りをしておればおかげを頂く、と云うだけの道ではです。言うならば必ずしも金光大神の道ではなくてもいいのだ。
 金光大神が歩かれた道を限りなく、辿らせてもらう。先日から妹の所の娘の百日祭の時頂いた様に、「子のために悲しむ親の心にも、勝れる神の心をぞ知れ」と云う様に、それを知って行くのだ。それを悟って行くのだ。どんなに腹の千切れる捩れる様な、それこそ腹がたぎるような、場合であってもです。私がこんなに苦しんでおるけれども、神様はそれよりも苦しんで下さるんだ。
 それよりも深い広い思いで、私の事を願い祈っておって下さるんだと悟れる時に、千切れる様な煮え繰り返る様な、又は人間の一番の悲しみに直面致しましてからでも、です。神様のお心を悟らせて頂いたら、分からせて頂いたら、苦しいけれども御礼が言えれる、と云う事。痛いけれども有難う御座いますと云う事が言えれると云う事。はらわたは、煮え繰り返る様にあるけれども、此の所を通り抜かせて頂いたら、神様はどの様なおかげを下さるだろうかと思うただけでも。
 胸がワクワクする様に心が躍って来る様な、状態が頂けれるのがお道の信心、金光大神の教えられた道。是はその時に沢山な御信者さんが、二十何ヶ所の、教会から集まっておられる。其処で私がお話させて頂いたのですから、聞いて下さった方達は沢山あるけれども。それはそんなら、平田氏夫妻がです。通られた道だからこそ、そうどころじゃありません先生、と云う物が、聞きながらあったんですよ。
 本当に先生がおっしゃる通りです。私共夫婦の上にも、それはもう本当に、満州に夜逃げでもしょうか、自決でもしょうか、と云う様な時を、初代の親先生のお取次を頂いて、今日の平田がありますと云う事をです、ありますからこそです。その事が分かられた。もうそう所じゃありませんと云うのです。共鳴された訳です。そして現在の大平田と言われる程しの、信心の上に於ても、おかげの上に於ても、しかも限りない、おかげの頂けれる、一つの基盤と云う物を作られた。
 その間にはです、今日申します様に、それこそ教会に座り込まれて、御祈念し抜いて、自決でもさせてもらおう、かと思う程しの所を、通られた。それこそ煮え繰り返る様なと言うか、はらわたが千切れる様な思いを、夫婦でされた。そう云う時代をお取次一つにお縋りさせて頂いて、おかげを頂かれた。私はその話を聞かせて頂いて、嬉しいなと思うた。「親先生、私はどうしてこげな勿体ない様なおかげ頂くじゃろうか」と安武先生にまだ御在世中申し上げられた、平田さんが。
 そしたら「あんたが一番参って来たもんな」とおっしゃった。只参った拝んだと云う事じゃない、一番私に接近して来たと云う事なんですよね。初代がおっしゃるのは。参った拝んだと云うのは沢山ある。一番参って来たもんなと、一番私に近づいた。一番私の信心を信じて、此処迄辿って来た。どの様な場合であってもです。神様の御神意御神慮に間違いなしと、只今此処で頂いております様に。だからそれを一切御事柄として、受け抜かせて頂くんだと、云う事になるです。そう云う道なんです。
 金光大神の道と云うのは。その中にはそれこそ、腹が千切れる様な思いをする事があるけれども。やはり御事柄として受けて行く事なんです。そう云う道なんです。それをどうしても受けられない。只苦しいばかりが残ると云うならば、まだ修行不足と思うて、修行の方を本気でしてご覧なさい、必ず苦しいけれども有難いと云う答えが出て来る。だから、そう云う時には、一つ、あらゆる修行もして見る事だ。お参りも拝む事も、例えば断食の一つもして見るのも良かろう。
 水行した事ないなら水行も思い立って見るも良かろう。そうして心を神様に向けて行くうちにです。神様の心も分からしてもらう。けれども苦しい、けれども有り難いと、御礼を申し上げる心が、頂けて来る。私は傘一本で開ける道と云うのは、そう云う事だと思う。それ一つ、そこ一つなんだ。そこのところを辿らせて頂くだけなんだ。どう云う苦しい、どう云う難儀。
 私共修行中にはそう云う事が何時もありましたが、家内が今晩のお粥さんを炊かして頂いたら、明日の朝炊かせて頂く、もうお米がありませんよと、今日はかすって炊きましたと、云う様な時でもです。しかしお前、今日まで頂いて来たと云う事は、今晩まで食べさせて頂いたと云う事は、有難いじゃないか、と今日まで頂いたと云う事じゃないか。さあ明日は明日、神様が下さるおかげを頂かせてもらう。
 もう今日は今日で、おかげを頂いた。その御礼を申し上げて、明日は明日ぞと言うて、休ませて頂いて、さあ明日は米が無かげながどうしょうか、と云う不安で休まれなかったと云うのは一日もありませんでした。それはもう翌日は見事に頂かせて頂けれるおかげを頂きました。成程、自分で生きるとじゃなかなあ、神様が生かして下さって生かされて生きておる、と云う実感と云う様な物が、もう愈々出来て参りました。
 そげん時にうろたえない。そんなら隣から、いっちょ一升借って来とかんの、と云う様な事じゃないのです。今晩まで頂けたと云う事は有難いじゃないか、もう明日も開けるんだと。昨日、上野先生が御結界奉仕をしておる時に、誰からか御神夢を神様から頂いておる事が、「明日も成る」と頂いた明日も成る。どう云う事じゃろうかと思いよった。明日が不安である、明日が不安であると云う事ではない訳です。今私が申します今夜頂けたと云う事は有難いじゃないか。この事を只御礼申し上げる他はないよと。
 さあ明日は明日と云う事は明日も成る事を確信しておるのである。成ると云う事は成就のじょうですね。明日も成ると云う生き方こそ、生神金光大神の道だと思う。明日が不安でたまらん。明日が心配でたまらん。先の事は真暗と云う様な、私は信者であっては、お道の信心を頂いておる者とは言えないと思う。素晴らしいですねえ、どんな場合で有っても。今日も成ると。それは今日もおかげ、今晩までは今晩までは頂けたけれども。さあ明日はもう日干しにならにゃんと云う不安じゃ無くてです。
 今晩まで一同の者がお粥さんでも、すすらせて頂いたと云う事が、有難い事じゃないかと云うのです。だからそこにあるものは只、御礼だけしかない。その御礼の心にはです。明日もまた成る事が約束されるのです。不安であったり心配であったら成らんかもしれません。だから其処迄の信心をです、頂きたいです。明日も成ると云う確信出来れる。どう云う場合であっても、明日も成る。どうとかなろうと言った様な、投げやりのもんじゃない。確信をもって、明日も成る事が確信出来れる、信心を頂きたい。
 金光大神の道とは、そう云う道をハッキリ示して下さるんだ。昨日遠方から参って来ております、娘さんと言うよりも、まあ若い嫁さんと云う事になるでしょうか。大体娘さんだけれども親の許さぬ人と駆け落ち的な様な事をして、その方と同棲して生活をしておる。お母さんも熱心に参って来ます。その事のお願いがずっとあっておる。所が段々少し行き詰まって喫茶店の様な所に、働いたり何か色々しておる。
 先日からお母さんと一緒にお参りをして来て、もうどうにもこうにも出来ない様な心の状態がもう、真っ暗でどうしてよいじやれ分からん、と言う所迄いっておる。それで是は、自分で自活をして行く道、何か例えば、子供の時にそれこそ、贅沢で習うた舞踊、踊りを稽古しておりますから、それをまちっと、本当に稽古させてもろうて、名の一つももろうて、踊りの先生にでもなろうか、それともこの人は大変犬好きなんです。もう兎に角犬が好きなんです。
 ですからその、犬猫病院と云う訳じゃないけれども。犬の教育をする学校がある。犬を可愛がる要領とかを教える学校がある、一年間の。是はもう兎に角犬が好きなんです。どんなに苦しい時でも、よい犬の一匹二匹は持っとかなきゃ、出来んと云うのです。そう云う例えば贅沢な、家庭で、そんなわざわざ苦しい所に行かんでもよか訳ですけれども。結局そう云う結果になっておる訳です。それでどうとか自活の道と云う物を、開きたいと云うので、踊りの名でも取らせてもらおうか。
 それとも犬猫の学校があるから、学校にでもやらして頂こうかと云う事であった。それで私がね、犬猫の方の学校にやらして頂く様に申しました。そして踊りの方だけはやめなさいと、今勤めておるお店の事も、勤めながら、そして夜に学校へ行くと言う。昨日もそれ聞きましたがもう例えば、そう云う店に勤めさせて頂くと、もう嫌で嫌でもうふるふる好かんと云う様な人が、そのお店にやって来る。そう云う場合なんか、どうさせて頂いたならよかろうか、と云う事がです。
 例えばその日参って来た事によって、もう私は好かんとを、一番大事にする、と云う私の生き方がね。もうこ此のはふるふる虫が好かんと、云う様なのをもう本気で、それを神様の氏子として、見ると、云う事なんですけれども。そう云う高度な心じゃないですけれども。兎に角好かん者をかえって大事にする、と云う行き方で、やらして頂いて、おかげを頂いたら、どうだろうか。そして、その兎に角信心でお店に勤めさせて頂いて、学校に通うたらどうだろうか、と。
 そしたらもう今まで暗かった、そのどうしていいじやれ分からない、心がですね。言うなら心が腐っておったのが、もう自分の好きな事が出来ると、言ったもんですから、もう生き生きとして来た。所がですまあ本当にそのそれこそお母さんと、一緒に帰られたもうそれこそはしゃぎ回って帰ったと云うのです。自分の好きな事が出来ると頂いたから、そして帰らせて頂いて、早速学校に手続きを取らせて頂いた所が、それはインチキ学校であって、もうそれは直ぐに潰れたと云う話しである。
 そこでそのガクッと来た訳ですね。合楽の先生がその学校に行けと言わっしゃったのに、実際行って見た所がその学校は潰れておった。所が不思議な事が起ってきた。と云うのはですね自分の店に嫌で嫌でたまらんと云う人があったのがですね。もう本当に、心から大事にしなければおられない心が出来て来たと。もう是は有難い、自分の周囲に嫌な物が無く成ると云う事程、有難い事はない。信心の世界と云うのは、そう云う世界が広がって行く事なんですよ。
 あん奴は好かんこん奴ばかりは嫌と云うのではなくて、それも有難い事。あの人も良い人、と云う風に見えて来る事なんだ。その良い事良い人の中に自分自身がある事になるのですから。それからもう十日位になりまして、その事を合楽の先生にもう一遍、尋ねたい。それで先生がおられる時でなからにゃいけんからと云うので、わざわざ日にちと時間を昨日言うて御座いましたから、私は心待ちしとりましたらお参りして来た。
 それで昨日の御理解を、丁度風呂に入ってましたから、昨日の御理解を頂き終わろうとしておる所に、私は風呂から上がって、そこへ出て参りまして、今日の御理解頂いたねと。もうそして私がね、この前ああたが参って来た時に、どう云う事を頂いたかと言うとね。あなたの心が腐っておる。例えば私はその時の御心眼に、私の方のお風呂の引き戸の隅の方が、お湯で腐っている。
 だからもう取り替えなければいけない様になっているんです。ですから風呂の戸が腐っていると云う事はどう云う事かと言うと、風呂はまあ例えて言うなら極楽だけれど。そんなら、極楽だからと言うて、ずうっと風呂に入っておくと云う訳にはいくまいがと。だから風呂に入っても、ああ極楽だけれども、言うなら自分の好きな事をして、ああ極楽であってもです。好きな事がずーっと出来ると云う事じゃない。いくら好きな男があっても、朝から晩まで、ちゃんと向き合うて寝とると云う訳にはいかん。
 だからそれは、風呂に入っての極楽の様なもんなんだ。けれどもさあそれが、済んだら、もう生活の事が其処に掛かっておる。苦しい問題が人間関係が様々にある。だからその中にも極楽を見いださせて頂くのが、信心だと私は説きました。ですから例えば、親の許さないその様な事でもです。まあ入ったと云う事は風呂に入った様な事じゃろうけれども。そのおかげがかえって、扉を腐らしておる。言うならば心を腐らしておると云うのである。心が腐っておる。
 だからこの腐っておる心、真っ暗になっておる心を明るくしてやらなければ、其処ん所を修繕してやらなければならないと云うのが、この前あんたが十日前参って来たと云う時が、あんたの心を神様が手術して下さったんだ。どうだったね、あれを境に、心がスッキリ明るくなったろうが。其処で昨日の御理解の中にもある様に、三年三年また三年と云う様にです。目が見えない人に教祖様が三年の日を切られた。所が三年たっても目は開かなかったけれども、三年経ってるうちには信心の方が有難うなって来た。
 もう六年目には、もう目の開くとか、見えるとか見えないじゃなく。只信心の有難さが分かって来た。そしてまた三年日を切られた。三年三年また三年という時には、もういよいよ信心の徳を身に受けて、有難い勿体ないの生活が出来る様に成った所に、目が開いたと云うおかげになった。だからあなたの場合は、丁度いわゆる三年三年の三年を辿らせて頂いたら、信心とは成程此の様に、お取次を頂く事によって、腐った心が、言わば明るくなれる心を修繕して下さるのが神様だ。
 修繕して頂いて、例えばそんなら、その願いと云う物は、神様が嘘を仰った様な事であった。その学校に行ったが良かろうと云うので行った所が、その学校はもう既にインチキ学校であって潰れておった、と云うのである。其処でそんなら、信心のお取次を頂いてのお働きと云うのが分かったんだから。是からは、昨日、あんたが今、御理解を頂いた様な、在り方に所謂、願う事は願う。お伺いする事はお伺いしてもよい。またおかげを頂かねばならん所はお願いもさせて頂きながらです。
 信心の道を歩かせて頂かなければいけないという訳なんです。昨日はそこが分かった様な感じがする。もう前の様に心が腐ってない。生き生きとして、本当の例えば、生活の現場での信心と云う物を身に付けて行こうとしておる。そう云う、私はその金光大神の道と云うのは、そう云う風にして、道を指し示して下さる。場合によっては、そんならば嘘を言うてでも、本当な方へ導いて下さろうとする訳なんです。
 だからそう云う道をたどらせて頂くのが、此方の道なのです。そこでです、私共の願いと云う物が、高度なところへ、生神金光大神を目指させてもらう。みんなもその様なおかげが受けられると云う。そう云う信心を身に付けさせて頂く為にです。本気で信心の姿勢を取らなければいけないと云う事です。是も昨日上野先生が、御結界でもうそれもハッキリと、そのお届帳にですね。「アルプス山頂登山 永瀬格一」とお届けがしてあった。どう云う事でしょう。
 アルプス山頂登山 永瀬格一と云うお届けがお届帳にちゃんとしてあったと。さあ其処で一つ皆さんが永瀬さんの信心を見て頂いたら、いい訳です。華やかなおかげの中にも、なあにもない。どっちかと言うたら右と願えば左と言った様な、まあそして実際、何処におりなさるか分からん、位な信心だけれども。そんなら永瀬さんの信心を、皆さんが思うて下さったらいいです。そう云う意味で永瀬さんは合楽教会の第一人者だろうねと言うて、上野先生と話した事でした。
 もう目指してある所がです。目指してある所が言わば、アルプス山頂です。世界で一番高いと言われる。ね。言わばその、道、しかもそれには、大変な度胸と言うか、技術と言うか、アルプス登山でもされる為には、随分あらゆる、山にも言わば踏破した人、登った人でなからなければ、登れないと云う山です。その山頂を目指すと云う。生神金光大神を目指すと云う。まあ言うならば、此処ではそんなら、皆さんがまず、親先生の信心を目指すと言うても、いいかも知れません。
 私が辿らせて頂いておる道を、歩くと云う事であっても良いかも知れません。ですからその、途中に、どの様な嶮岨な道があろうとです、どう云う所を通ろうとです。問題は目指す所があそこなんです。目指す所が山頂なんですから。全然問題ではない。お互いの願いと云う物が、低い所に置いてあるから、信心しておって、どうしてこんな事になる、であろうかと云う事になるのです。お互いがです。本当に、高度な所に信心の目指しを置かせて頂いとくとです。それも又、楽しいのである。
 それもまた有難いのである。その道すがらが。そして自分の言わば、登れば登っただけの視野が広がって行く、と云う事が楽しいのである。そう云う信心に初めてです。絶対登れると言うかね、明日も成ると云う、確信が生まれて来ると思うのです。それを信心で言う安心の境地と言うのです。傘を持っておればどんなに曇っておっても、安心でしょうが、傘を持たないから、さあ途中で降りどんするなら、濡れんならんと云う心配があるのです。傘を持っておれば。
 どんなに今にも降りそうであっても、傘一本持っとりゃあ、安心な様に、此方の道は傘一本で開ける道とはそう云う事。そう云う内容がです。信心の内容が、明日も成ると確信出来れる信心。それを私は傘一本と、云う風に教祖は説かれたんだと思う。例えばどう云う嶮岨な道を通らせて頂いておっても、今日も其処を辿らせて頂いた。今日一日食べるものがあったと云う事が、有難い。さあ明日は明日と、それこそ心配なしに、休めれるおかげが頂けれる。それが金光大神の道なんです。
 此方の道とはそう云う道なんだ。その過程に於てはです。只今も申しました様に、導いて下さる為にはです。今も申します様に、どうしても許されるとは思ってもいなかった。自分の好きな犬猫学校にでも是は、言うならば嘘であった。けれども嘘言うてからでも、その心をまず、修繕して下さってある。其処から次の信心のまた手掛かりを頂いて、帰って行ったと云うのが、さっきのお話。だから次の手掛かりと云う物を頂き頂き登って行くのです。必ずその手掛かりは与えて下さるのです。
 だから心が生き生きとした、いわゆる元気な心で信心せよと仰せられる。同時に、目指すと云う所をです。アルプス山頂と迄は行かんでも、富士山山頂位な所には、置かなければいけない訳であります。永瀬さんの信心が、手本になるとか、見本になると云う事じゃありません。けれどもそう云う例えば、信心の最高の所の信心を、目指して進んでおられると云う事に於ては、しかもそれにです、へこたれる事なく、是は皆さんが御承知の通りです。どう云う場合であってもへこたれる事なく。
 大抵の人達がですねえ。何かあると、もう信心なやめません。けれどもシュラーとしてしまうです。又それを元気付けるのに骨が折れるです。所が私はまあだ永瀬さんのシュンとさっしゃったり、腹立てさっしゃったりというのを、まあだ見た事がない過って。だからそう云う過程にある糧ではあるけれどもです。結局目指しと云う物がハッキリしておるから、私は一喜一憂せんで済むのだと思うのです。お互いの信心を見てご覧なさい。みんな一喜一憂があるです。それではね、やっぱきついです。
 一喜一憂が、ただ続けておるだけでは。ですからもう何処までも、そこに一つのそう云う所に直面したら尚更、一段と元気な心が湧いて来る様な、生き生きした心が生まれて来る様な、それに立ち向かわせて頂く所の信心というものをです。おかげを頂かなければならん。昨日本郷の二番目の息子さんが今、鹿児島に布教に出とる。末永先生の同期である。それはもう毎日毎日御結界にちゃあんと座っとるだけで、誰あれもお参りはして来んと云う訳である。
 そう云う中から信心の悩み、又いろんな苦しみを、末永さんに相談して来る。私にも先日から、葉書が参りましたけれども、末永さんを通して、色々御神意を伺うてくれと言った様な事がある。先日も手紙が来ておった。それで私が少し、まあ言葉荒げて、そう云う事でどうするか、そう云う思いはいっちょ捨ててしまえ、と云う意味の事を言うてやった。それを手紙を出して、受けて、また返事が来とる。
 合楽の親先生にね、叱られたと云う事を、有難いと言っておる。合楽の親先生から叱られんごたるなら、自分の信心も、もう大した事はなかぞ、と思うて、合楽には通うて来よったけれども。他所の信者ではあるし、他所の息子さんではあるし、そういろんな厳しい事も、かえってさあお茶を飲んで行きなさい。お神酒を飲んで行きなさいと云う様な、風じゃったから、ある意味合いではではです、是は合楽の先生に、機嫌でも取ってもらう様な、自分であると云う事をです。
 こげな事じゃあ自分は大した事はないなあと思うておったら、初めてお叱りを頂いて、有難かったと云う手紙を寄越し取ります。だから私くらいな者から、怒られて元気を出すと、云う事も有難い事ながらです。天地の親神様から、お躾を頂いておる。天地の親神様から、嶮岨険悪な道をも、辿らせて頂いておる時であってもです。それこそ私自身に神様の大きな期待願いがあるからこそこう云う厳しい躾もしてもらえるんだと、かえって有難いと思えれる信心を、今日は聞いて頂いた訳です。
 金光大神の道とはそう。それはそれこそ平田さんの奥さんが言われたと云う様に、八の字が横に寝ておる∞。八の字がもう本当に千切れるごとある、思いをする時であってもです。それを神愛だと御神意だしとて、御事柄として受けて行くと云う生き方の中からです、無限大のおかげに繋がって行く楽しみがある訳です。其処ん所を確信しなければ、とても登れる道ではありません。金光大神の道とは、私は此方の道とはそう云う道だと思う。   どうぞ。